■ 雅楽の歴史 2009.4.12


5月1日に雅楽の楽器・笙と共演するので、ここに雅楽の歴史をおさらいしたいと思います。

私は、宮内庁楽所に知り合いがいる関係で、学生時代より皇居に行って雅楽を聴いたりした経験があるが、その頃はやけにテンポがゆっくりで眠くなるな、くらいしか思わなかった。音楽として改めて聞くと、とても新鮮な響きで、その大きなスケールは、やはり大陸からやってきたものだ、と思わせるところがある。
舞いも、音楽と同じように、ゆっくりだが、とても大きくかっこいい、と思う。

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★雅楽の歴史

612年、百済の味摩之なる人物が、中国南方で広まっていた伎楽を日本に伝えたのが始まりといわれている。聖徳太子は、仏教を国内に広めるためにも雅楽を大事にした。

 701年、大宝律令が制定されると、朝廷の音楽を司る役所が作られた。これを雅楽寮という。この雅楽寮は、国が法律で設置した最初の音楽学校ということができる。

 752年、奈良東大寺の大仏開眼会が行われた。インドから来たバラモン僧が導師となり数百万の僧をしたがえての大法会であったその時、東大寺の中庭では、供養の舞や音楽が、数百人の音楽家たちによって行われたと伝えられている。その時に使った楽器、装束などが正倉院に保存されている。

  894年に、菅原道真の勧めで遣唐使が廃止されたこともあって、平安時代には日本独特のものを尊重する風潮が高まった。後に、「国風文化」と呼ばれる文化が広まっていったのである。その影響は、美術や工芸だけでなく、音楽にも及んでいた。和楽には大歌所、舞楽には楽所が設けられ、より上品な者をめざしていった。宮廷貴族の生活の中に雅楽は深く入り込み、専門楽人だけではなく、天皇以下、公卿・官僚・武人までもが宮中の行事や御遊に参加したという。


 雅楽は、「雅正の楽」つまり上品な音楽ということを意味している。雅楽がこのように上品な者として扱われはじめたのは平安時代からであるが、それは日本の雅楽が当時の天皇たちの監督のもとで改革されていったものであるということが大きく影響しているであろう

 しかし、平安時代の末期を迎えると、宮廷文化を支えていた貴族の力が衰え、それに伴って雅楽も衰退していった。その後は、京都・奈良・大阪の三方楽人の手に移り、職業化され、世襲されていった。
 江戸時代に入り、雅楽は儀式楽として京都御所と江戸城紅葉山に集められた楽人たちによって行われるようになった。

 明治に入ると、それらは宮内庁雅楽局に収容され、縮小されていった。
 現在では、宮内庁雅楽部が中心となって雅楽の保存に力を入れている。このほか、伊勢神宮、天王寺、春日神社などの神社仏閣にも残っている。

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以上、岡崎市立矢作北小学校雅楽部のサイトを参考にさせていただきました。


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