■ 「常世の水」 音づくりについて2010.4.12

4月10日天候にも恵まれ、無事、「常世の水」公演が終了しました。
能舞台という私の好きな環境で、気持ちよく音をだすことができました。

当日いらしてくださったお客様から、音をどうつけたのか、という質問をいただきましたので、ここで少しだけ説明したいと思います。

身体表現と共演する場合、いろいろなやり方がありますが、台本がある場合、台本が無い場合、ストーリーがある場合、ない場合、でさまざまに違ってきます。

昨年、モリヤ・キクコ・ダンス・カンパニーと「神話の海」という作品で共演したときは、作品をイメージするメッセージを森谷先生よりいただきました。あとは、場面場面の動きからイメージして音を創りました。音作りに関しては一切の注文がなく、私におまかせします、という仕事だった。地唄舞の古澤侑峰さんの源氏舞いのときは、源氏物語の「浮舟」のなかの、ある場面、というのがしっかり台本として渡され、本読みもしましたので、かなり細かくどこでどういう音、というのを指定されてやった記憶があります。他の演奏家の方もいらしたので、担当を決めないとぐちゃぐちゃになる危険があった、ということもあります。ただし古澤侑峰さんの場合、台本もなく、まったくのぶっつけで、即興でやられる場合もあります。

で、今回の常世の水の場合は、3部構成で、それぞれのタイトルとイメージだけをいただきました。
     1部・白椿  2部・禍蛇   3部・泉

白椿、泉、はすぐにイメージがわかり、使用する波紋音、フレーズもすぐに決まりました。2部の禍蛇が、前日のリハーサルで太鼓を使ったのですが、いまひとつで、決まらず、どうしようか・・・と考えていました。秦さんからは、赤い布、火、としかメッセージがなかったので、自分でもう一度、調べてみました。(秦さんは、私が当然原作を知っていると思われたのでしょう)

すると、ネットに、恐ろしい記述が・・・

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「陰陽師」に登場する白比丘尼は、30年に一度、身体の中から禍蛇(かだ)と言う鬼を追い出してもらわなくてはならない。
そのために晴明のもとを訪れます。
白比丘尼は、男に身を売って生きている。その精と、とらなかった歳が、身体の中で結びついて鬼と化してしまうのだ、と晴明は博雅に教えます。
そして「枯れるからこそ花、枯れぬ花はすでに花ではない」と・・・
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確か、以前にもこのところは読んだはずだか、もう少しぼやかして書いてあったのだろう、このように身を売って、という表現ではなかったような・・・。身を売っていてもうっていなくてもどちらでもいいが、とにかく、いろいろな男か?生き物?の精を受けてしまって、それがたまってしまうのか〜〜〜〜、恐ろしい話だ。

というわけで、これは、血がざわざわする音だな、と思い、チャイナシンバルと木の実、やら、動物のツメやら、古代の鈴やら、とにかくざわざわする音を出してきて、コントラバスの弓でシンバルこする音も出してみよう、とか思って、当日持参したのでした。

当日はもうリハーサルがない。

ということで、午後の部は、いきなり、ぶっつけで音を出してみました。ここのところ波紋音コンサートばかりやっていたので、こういう音は久しぶりでした。気持ちがざわざわするためには、すっきりはっきりしたリズムを叩くのでなく、ひたすら擦る音、引掻く音などが似合うとおもい、はいつくばって、シンバルの上で木の実など擦りまくっていまたので、ちょっと狂った女に見えたかもしれないですが。(笑)


シンバルなどを、弓でこするのは、現代音楽の世界では、かなり古くから使われてきた奏法ですが、一般の方には、珍しい音らしかったです。
怖い音がします。(以前ギリシャ悲劇の音をしたときには、ドラを擦りまくってました)

木の実の楽器、チャスチャスとかセミーヤとかいうのも、初めての方もいらして、終演後見せてください、といわれたりした。これらは、もともと「コンドルは飛んでゆく」、などの中南米音楽に合わせる楽しいリズム楽器なのだが、おもしろい音なので、いろいろに使っている。
http://www.shinhabazar.com/peruzakka/chakcha/chakcha.htm

3部で、「う」による、「海」という楽曲が演奏されたので、その裏で、水が流れるイメージで木の実を触って音をだしていたのが、おもしろい音だった、といわれた。ふしぎなことに、木の実は水の音がするのだ。

最後の演奏家二人は、言葉による打ち合わせはほとんどなく、田島さんが笙を演奏しているときに、私の波紋音の音があったほうがいいか、無いほうがいいか、場面、場面のイメージと、動きを見ながら、私が決断していた。これはかなり、重要な決断で、あらかじめ決めておくのが普通なのだろうが、田島さんとは昔からのつきあいだったので、あうんの呼吸でいいかな、とおもった次第。このあたりの整理がつかないと、ぐちゃぐちゃの音楽になり、そういうリスクを避けるためには、取り決めをしっかりしたほうがいいと思う。

今回は、演奏家が2人だったからうまくいったので、3人、4人になるほど、整理整頓は必要かもしれない。

それか最大級になったものが、オーケストラであり、だから、細かいパート譜が必要であり、指揮者が必要なのだ。その縛りがあるからこそ、あのような複雑な音楽が可能なのだ、ということもいえよう。

音楽が複雑になればなるほど、人数が多ければ多くなるほど、音楽家、ひとり、ひとりの個性、自由度は低くなる。

そういう意味では、気の合う演奏家2人だけで音を作れ、音環境のすばらしい能舞台という場で、演奏できたことは、音楽家冥利につきるのかもしれない。
 
こういう場にお誘いいただいた秦さんに感謝したい。
秦さんにも、今回とても楽に動けた、という感想をいただいた。
舞い手が主役なので、楽に動ける、ということはとても大事なことだ。

いろは歌も謡えて、おもしろかったです。舞台で声を出す経験はあまりないので、貴重な体験になりました。


終演後、さまざまな方に波紋音について感想や質問などいただきました。午後の部にいらした方が、波紋音の音がよくて、帰りたくなく、カフェで一休みしている、というお話を夜の部のお客様から教えていただきました。とっても嬉しかったです。


当日ご来場くださった皆様、ありがとうございました。






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